意味、価値、正しさ(数理科学コース教員・中江康晴)

「数学の研究には『意味』と『価値』があるよね」という研究室の先輩の言葉を、ふと思い出すことがあります。この二つの言葉が指し示すものは、数学の、特に研究の立場からはどうみえるでしょうか。

手元にある社会学辞典を見てみると、価値とは「主体の欲求を満たす、客体の性能」であると定義されています。例えば、ある定理の価値とは、その定理に内在的なものではなく、価値があると欲する人との相関によって定まるものであるということです。これは数学に限らず、ある事実が一つだったとしても、そこから見出される真実は人それぞれごとに異なるという構図と同様です。よって、それに接する人ごとに異なるのですから、数学の研究における価値は、絶対的に重視しなければならないものではないように思えます。

さて、ある命題に意味があるか無いかは、自明であるか無いかと等価ではないかと指摘する人がいるかもしれません。自明であるとはどういうことでしょうか。例えば、半径 r の円の円周の長さが 2πr であることは円周率の定義そのものなので自明ですが、面積が πr^2 であることは円周率の定義から直ちに導かれることではなく、自明ではないと言っていいのではないでしょうか。しかし私は、意味があるかどうかと、自明であるかどうかは等価ではないと考えています。

現代倫理学辞典の意味論の項を見てみると、言葉の意味とは、その言葉を発することによって話し手が達成しようとする意図が源泉にあるという考え方と、本質的に社会的に規定されるものという考え方があるようです。言葉を数学の定理に置き換えてみると、前者はここで考察している数学における意味を内包し、後者はある公理系を固定した時の数学における『正しさ』と等価なもののように思えます。

では、数学における意味であって、言葉の意味における前者の考え方に含まれないものは何でしょうか。それは、まだ誰も見出していない数学的事実を、自分が見出したという喜びではないかと考えます。この喜びが伴わない定理に『意味』があると主張することには躊躇いがあります。そして逆に、このような意味の要素があるからこそ、数学の研究は中毒性を持ち得るのではないでしょうか。

この定理に意味があると述べるとき、そこには先述の通り『正しさ』も含まれるべきでしょう。そしてその正しさは、意味があると述べる主体が保証しなければらなないものです。この正しさを、価値とは明確に分離して述べられることが、数学の良いところでもあり、価値から分離されるが故の孤独を強いるものでもあります。孤独だとしても、このような『意味』を追い求めることが研究なのではないかと思います。

(「インテグラル」Vol.7 2020年4月1日発行)

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